Top
 
   
   
 
 
   
墓碑調査
    キリシタン墓碑を調査する浜崎献作会長
         
拓本調査   墓碑全体   正覚寺
拓本調査   墓碑全体   正覚寺
         
拓本左側   拓本   拓本右側
拓本左側   拓本全体   拓本右側
     
     
     

新説を提唱!謎のキリシタン墓碑

IHS紋章と碑文を刻む

イエズス会士のロペス神父か?


「南蛮寺」跡と伝えられている熊本県天草市有明町上津浦の正覚寺で1985年に発見され、カトリックのイエズス会を表すIHSと墓碑名が刻まれた全国でも珍しいキリシタン墓碑(県指定文化財)は「天草キリシタン研究会」(浜崎献作会長=元サンタマリア館長=75)らが再調査した結果、ローマに本部があるイエズス会の宣教師で1605年に長崎で亡くなったバルタザル・ロペス・オ・グランド神父のものだとする新たな仮説を提唱。浜崎会長が来春、出版予定の著書で調査結果を発表する。発見されてから34年経過し、これまでだれのものか不明のまま謎だった。今後、大きな議論を呼びそうだ。

*************

雲仙(長崎県)を望む有明海に面した上津浦港から車を走らせること約5分。山間の村落を抜け、うっそうとした杉並立に包まれた山の中腹にひっそりと正覚寺が立つ。南蛮風の山門をくぐり、本堂の脇に小さな堂があり、そこに墓碑が安置してあった
墓碑は高さ33.5センチ、幅52.5センチ、長さ54.5センチで安山岩を削り、カマボコ型をしている。同型のものがもう1基あり、基礎石として再利用するために2分割したものと考えられ、合わせると全長は約1メートルほどになる。寺の改築で解体作業現場から発見された。
発見当初、故亀子俊道元住職の証言によると、本堂入り口で、人が踏みつける場所にあえて埋めてあった。さらに墓碑の中央に「伏○」(○は欠字)と墨書されているものもあり、死霊の障りがないよう魂抜きがされていたという。キリシタン弾圧のすさまじさを彷彿させる。

碑文は2基の両端にIHSの紋章と「干十字」(かんじゅうじ)が刻まれ、一方にはその左右に死者名、江戸時代の年号「慶長十一年 一月廿四日」などが刻まれていたと思われるが、キリシタン弾圧の時、ノミなどで削り取られたようで、また風化も加わり、判読が困難になっている。
死亡者名だと思われる「大つ○○○た」などがかすかに読める。報告書などによるとこれまで、「大つ○きんた」や「大つるちんた」などの文字をあて、「有明町史」の中で故北野典夫氏は「大津留キンタという婦人が存在したのか。キンタは婦人に冠する霊名である」と書いている。地元に該当者はいない。大分市に大津留の地名があるので、洗礼名がキンタの女性はいないか「大分県立先哲史料館」に問い合わせたが、同じく該当者はいなかった。実在したのか不明だ。

これに疑問を持った同会は拓本をとり、外国文献に残る記録と照合するなど調査を行った。そしてイエズス会の紋章IHSがはっきりと刻まれていることから教会関係者でパードレ(神父)クラスのイエズス会士であると考えられ、女性の名ではないと推定。
そこで「キリシタン時代のコレジオ」などの著書があり、キリシタン研究の第一人者である慶應義塾大の高瀬弘一郎名誉教授に「慶長十一年 一月廿四日」をヒントに、1606年前後に亡くなったイエズス会士の名簿の中に該当する人はいないか照会した。すると天草に関連のあるバルタザル・ロペス・オ・グランド神父=Lopes(Grisante),P.Balthasar,S.J.=が浮上した(1)

シュッテ神父などの研究によるとバルタザル・ロペス・オ・グランド神父は1532年、ポルトガルのヴィーラ・ヴィソザ生まれ。1561年にイエズス会に入り、1570年に日本に来た。その後、長崎平戸の上長になり、長崎各地で活動した後の1592(89)年に上天草市大矢野町、1600年に天草市佐伊津町のレジデンシャ(宣教師の駐在所)にいたと記録があり、天草で布教活動を行った。1063年に「老衰と病弱」で長崎のコレジオにいて、1605年12月3日、亡くなった。また、同姓同名の神父と区別するため彼は「大」(グランド grandeあるいはmajor)と言われていたという。(2)

調査の結果、
(1)墓碑名の「大」は同神父が「大」と言われていた名を表すものではないか。
(2)右側は後から大きな字で彫り直した跡がある。下部に残る「一日」など小さな文字は、亡くなった聖日ではないか。同神父の没日は西暦で12月3日、旧暦では10月23日。いずれも下一桁は「三」になる。上部分の二本線が削られてしまい、下の「一」だけが残っているのではないか。
(3)左側の「慶長十一年 一月廿四日」(1606年3月2日)は墓碑が建立された日と推論した。

同神父は長崎で亡くなった後、天草の上津浦にある教会に運ばれ、葬られたとする説だ。上津浦のレジデンシャには1592年からマルコス・フェラロ神父がいた。(3)
1614年、幕府が禁教令を公布し、宣教師などがマカオやマニラへ国外追放されるまでの約22年間、天草の東部の広い地域で迫害に耐えながら、信仰の火を灯していた場所だった。
長崎市の大浦天主堂キリシタン博物館の内島美奈子研究課長に同神父が長崎の方に埋葬された墓などの情報はないか尋ねると「宣教師の墓と確認ができるものも見つけることができない」と答えが帰ってきた

「天草の伝承キリシタンとオラショ」などの著書があり、数多くのキリシタン墓石を見てきた浜崎会長は「墓石を彫ったのは日本人。ポルトガル語やラテン語でBaltasar Lopes Grisanteの発音が当時の人たちにどう聞こえたか不明」としながら「ゆかりのあった天草に葬ってくれとマルコス・フェラロ神父に託していたのかも知れない」と話す。
布教のため、遠く故郷を離れ、安住の地が天草だったのだろうか。答えを見つけるのは容易ではないが、謎解きは興味が尽きない。新たな仮説の提唱により今後、議論が深まることを期待したい。

◎上津浦 正覚寺
中世末期、上津浦は豪族天草5人衆の一人、上津浦氏の居住地。小西行長の支配下になると領主を始め、住民3千500人がキリシタンになった。レジデンシャが設置され、マルコス・フェラロ神父がいた南蛮寺が正覚寺だともいわれる。
島原・天草の乱(1637-38)後、民心を安定させるため1646年、曹洞宗の高僧、中華珪法(けいほう)が正覚寺を創建した。1930年、寺の境内で手洗い鉢の台に使用されていたカマボコ型のキリシタン墓碑が天草で初めて発見され、85年、寺の改築時に床下から3種類、4基のキリシタン墓碑(県指定文化財)が発見された。

(2019/12/3 金子寛昭)

◎註:
(註1)バルタザル・ロペス・オ・グランド神父 Lopes(Grisante),P.Balthasar,S.J.,《major》(《o Grande》 Schu¨tte,Monumenta Historica Japoniae,pp.1217,1218
(註2)キリシタン文化研究会「キリシタン研究」第18輯 1984年 チースリク「マトス神父回想録」63頁 同姓同名の神父と区別するため彼は「大」(グランド grandeあるいはmajor)と言われていた。
(註3)上津浦のレジデンシャには1592年からマルコス・フェラロ神父がいた〜今村義孝「天草学林とその時代」天草文化出版社1990年 (9)上津浦のレジデンシャ89〜92頁
◎参考文献:
北野典夫「キリシタンの世紀」有明町『有明町史』2000年、286頁。
前川清一「キリシタンの世紀に於ける有明海沿岸のキリシタン墓碑について」『歴史玉名』14号。
◎協力:
慶應義塾大 高瀬弘一郎名誉教授 「キリシタン時代のコレジオ」など多くの著書がある。
大浦天主堂キリシタン博物館 内島美奈子研究課長。

◎関連記事:
西日本新聞 「イエズス会神父埋葬か 地元の研究家が新説」(2019年12月3日朝刊)