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まぼろしだった「天草更紗」  
     

「天草更紗」はなかった!
衝撃の研究結果
40年かけ染織工芸家・大和田靖子さんが発表  

     

江戸時代にインドやヨーロッパなど南蛮貿易でもたらされた染織品「更紗」が天草に伝わり、異国情緒ある「天草更紗」があったとされてきたが、実は独自の更紗染など存在しなかったことが染色工芸家の大和田靖子さん(69歳・熊本市在住)の研究で分かった。

天草更紗はこれまでの通説によると江戸時代の文政年間(1818年〜)にオランダ人に伝授を受け、富岡町(苓北町)の森伊エ門の先代や城河原(五和町)の金子為作によって始められたとされる

模様は異国的なオランダやペルシャ風の花鳥、草花が多く、色は紅・黄色・弁柄・緑・黒などが使われ、島内の旧家に現存し、さらに昭和の初めに、本渡の故・中村初義氏(昭和45年没)が復興をしたとされてきた。
京・堺更紗や鍋島更紗(佐賀)、長崎更紗と並ぶ、独自の染織品があったとして関心を集めてきた。

大和田さんは昭和51年から郷土史研究家の平田正範氏(平成9年没)や日本工芸会の重鎮で鍋島更紗を復元した染織家の鈴田照次氏(昭和56年没)らに同行し、天草島内の更紗調査をしたのが始まりだった。平田氏が亡くなった後も遺族から資料を託され、40年あまりかけた研究成果「天草更紗の検証」をこのほど発表した。(写真上)

     
端物切本帳
 
     
  「端物切本帳」長崎歴史文化博物館所蔵(「天草更紗の検証」より)  
 

旧家蔵は輸入更紗と和更紗に分類できる

 
これによれば、江戸時代、オランダや中国から長崎経由で輸入される際に長崎奉行が鑑定・評価する手本として幅2寸(6.06センチ)ほどの切れ端を「端物切本帳」に貼り付け、荷札のサンプルを作成した。それが現在、東京国立博物館や長崎歴史文化博物館などに残っている。
旧家の大庄屋松浦家(天草町)や武田家(苓北町)などに残る更紗を一点々、「端物切本帳」の模様と布地を照らし合わせた。その結果、輸入更紗(写真下=1)とそれを真似て日本で作られた和更紗(写真下=2)の二種類に分類できることが分かった。
松浦家所蔵更紗-1
 
     
  松浦家所蔵更紗-1(「天草更紗の検証」より)  
     
松浦家所蔵更紗-2
 
     
  松浦家所蔵更紗-2(「天草更紗の検証」より)  
     
 

型紙も発見されず・・・

 
また、和更紗に必要な摺り込み用の型紙(伊勢型紙)は天草で発見されていない。数年前、幕末から明治中頃まで続いた福岡県柳川の紺屋(染物屋)で大量に発見された型紙の中に、天草に残る更紗と同じ模様があった。柳川で染められた更紗が天草に入ってきたか、同じ型紙で天草以外の地で染められたものが天草に入ってきた可能性が高い。(写真下)

文献では武田家蒐集品の中に明治以降の写本とされる「日本第一天草晒紗傳」に「コンジョウ ヲ アラビアシャコン ニテ解く」とあるが、コンジョウ(紺青)は化学合成された顔料で、それを化学薬品で溶き、モエギ、水色、浅黄コンジョウを作る技法は、色相や色数からみて遅い時期のもので、江戸期のものとは考え難いという。
 
端物切本帳
 
     
  柳川残存の和更紗用型紙(上)と天草残存の更紗裂(「天草更紗の検証」より)  
     
 

名ばかりが先行して実体は・・・

 
「名ばかりが先行して実体が掴めないままの天草更紗」だが、口伝えに創始者とされる森伊エ門の先代某を過去帳で調べてみると孫四郎(1775〜1847)で、金子為作(1814〜1884)と共に染物屋だったようだが当時、和更紗がすでに長崎で作られていたにしても、彼らが外国人から直接伝授を受けたと言う確証はなく、キリシタン禁教令の中、天草島原の乱後に幕府の直接統治下だった天草では考えにくい。

昭和の初めから50年代にかけて復興更紗として注目を浴びた中村初義氏(昭和45年没)は染料を混ぜた糊「色糊」を使用した型染めで、明治以降ドイツから化学染料が輸入された後、染めの加工工程を簡略化し、安くて大量生産の技術を用いたものであった。
折しも天草五橋の開通と重なり、キリシタンや南蛮風のデザインはマスコミ等に大きく取り上げられた。 中村氏は昭和39年、県の無形文化財に指定(昭和50年指定解除)されるが、大和田さんは「例え更紗の模様であっても技法が伴わなければ厳密な意味で、更紗ではなく、『更紗模様』『更紗風』と表現して然るべきもの」だという。本来ならば植物染料を刷毛で摺り込むのが本当で、糊に色を混ぜてヘラで型に摺り込む技法は江戸時代にはなかった。

最近また、「天草更紗の復興・復活」という言葉でもって江戸期の更紗と関連付けるような印象を与える天草更紗創作の動きもあるが、名称を商標的に使うことは自由であっても、技法が伴わなければ更紗ではないという。
 
 

天草更紗はなかった!
存在を証明する具体的な資料は皆無

 
そして結果は、「始めから天草更紗ありき」で研究を続けてきたが「天草更紗の存在を証明する具体的な資料は皆無に等しい」という
。 幕末から輸入更紗の模倣から始まり、全国的に広まっていった中で、天草でも更紗が染められた可能性は充分あるが、鍋島更紗などと肩を並べるような独自性のある「これぞ天草更紗の技法なり」というものは全く見当たらず、更紗の中で特別のものとするには無理があると結論づけている。
また、天草に現存する更紗は輸入更紗も他の地域から持ち込まれた和更紗も全て天草で作られた天草更紗とこれまで言われ続けてきた。きちんとした研究がされず、異国情緒のイメージだけが先行し、膨らんで解釈されてしまい、実体の曖昧さにつながっていったと記している。

「天草更紗の検証」大和田靖子著

(2010年11月15日)
 
 

<続報>
天草更紗の県指定無形文化財は
江戸期の技法ではなかった!
  

虹の旗秘められた謎  
  天草更紗熊本県文化財指定申請書(写真上)  
     
 

大量生産染めの技法で申請されていた

 

続報
天草更紗を復興したとして中村初義氏(昭和45年没)が昭和39年に県の無形文化財に指定される(昭和50年指定解除)がその際に、江戸期の更紗染の技法ではなく、明治以降の大量生産染めの技法で申請されていることが分かった。(写真上)
本来ならば植物染料を刷毛で摺り込むのが本当で、糊に色を混ぜてヘラで型に摺り込む技法は江戸時代にはなかったと染織工芸家の大和田靖子さん(68歳・熊本市在住)は指摘する。

文化財指定申請書には「むしのりでといた染料を駒べらにつけ型紙の上をかるくこする」とある。
さらに「染料は現在、化学染料を使っているが、正確な技術を伝承・保護するためには、旧法の植物染料による捺染が望ましい」と書いてある。明治以降、日本に入ってきた技法でもって天草更紗の「復興」としていたことが分かった。

熊本県伝統工芸館・工芸課の学芸員は中村初義氏の更紗は「『更紗調の型染め』と言うのが正しい」といい、江戸期の更紗染ではない」と話す。
また最近の「天草更紗の復興・復元」を報道する新聞記事やテレビを見て、発表を鵜呑みにせず、正しい技法かどうかの検証が必要とも話している。

◎「天草更紗熊本県無形文化財指定申請書」

◎「天草更紗の検証」大和田靖子著

(2010年11月18日)

     
 
 
   
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