秘められた意味
聖アンデレ十字だった
潜伏キリシタンの里に伝わる正月の臼飾り
潜伏キリシタンの里、熊本県天草市河浦町今富の川嶋富登喜さん(90)宅に伝わる正月の臼飾りは餅つきの横杵(よこぎね)を2本交差させ十字架に見立てる。これは、イエス・キリストの12人の使徒の一人、聖アンデレが処刑されたとされるX(かける)十字架「聖アンデレ十字」に由来し、その意味が秘められていることがサンタマリア館(同市有明町)の浜崎献作元館長(75)の研究で分かった。
きねを組んだ状態では普通の十字架には見えない。信仰がばれないようにするためで、浜崎元館長は「隠れキリシタンが五穀豊穣を祈願する風習も取り入れ、キリスト教の伝来からその後、民俗宗教的なものに変容していった過程を知るうえで大変、貴重なものだ」と話し近く、研究書を出版し、発表する予定。
カシの木を横に吊し、ワラで作ったしめ飾りのほかダイコンやニンジン、すき、くわをぶらさげる。「しゃわかざり」(幸木=さいわいぎ、さわぎ)と呼ばれる。
特徴的なのは「しゃわかざり」の下に杉製の臼をひっくり返し、供物としてご飯と煮物を隠し入れる。その上に竹で編んだ大きなざるを敷き、横杵(よこぎね)を2本交差させ、竪杵(たてぎね)を一本立てて置く。
臼の飾り付け作業は25日に行い、27日まで飾った。土間がなくなった今は作業小屋で行っている。川嶋さんの父、源三さんから教わった。
小学生のころ、12月25日のクリスマスの夜になると水方(洗礼を授ける役)がやって来て仏壇にある鏡を「衣替え」と称して白紙を取り替え、お経(オラショ=主祷文)を唱えていたという。先祖がキリシタンであることを知ったのは墓を納骨堂に作り替える時、石工が地蔵墓碑の台座に十字架が刻んであるのを見つけた。
川嶋さんの先祖を調べたところ禁教令が解かれた後の1877〜79(明治10〜12)年頃、キリスト教には復活せず、祖父のとめ太郎さんの代に神道に変わった。またその後、天草町大江の「江月院」の仏教門徒になる。川嶋家は「かくれキリシタン」ではないが、正月飾りと共にその習俗だけが残った。その年に家庭内に不幸がなければ藁のひもを結んで並べて行く。その祈りは先祖崇拝であり、キリスト教のイエス・キリストやマリアへの祈りではない。
浜崎館長によると鏡は中国製で「魔鏡」(ご神体)と呼ばれ、キリシタン指導者必携のもので祈祷に使われたものだという。また地蔵墓碑の台座には「山冠」(Λ)と干十字(十字の上に横線がある)を刻んであり、江戸時代末期のものと考えられるという。(1)
幸木飾り自体は農耕儀礼として一般的に行われていたが、潜伏キリシタンが行う場合には、臼の中に飯や煮しめの供物を隠し入れ、横杵を「聖アンデレ十字」に見立てる。キリシタンでない場合、横杵の柄を平行に2本に並べるだけで、供物も入れず、明らかに異なると指摘する。
「聖アンデレ十字」は二本の直線が斜めに交差したX十字型の文様で、キリスト教で用いられる十字架の一つだ。キリストの十二使徒のひとりでX字型の十字架で処刑されたとされる聖アンデレに由来する。スコットランド国旗やロシア海軍軍艦旗や紋章、勲章にまで広く使われている。
天草市市五和町御領で発見された潜伏キリシタン墓碑にも「聖アンデレ十字」が刻まれた例があるという。
1612年、江戸幕府が出したキリシタン禁教令後、天草にいた宣教師たちも2年後に追放される。浜崎館長は100年もすると、本来のキリスト教が日本的な多神教に染まる。先祖の宗教を守らないと「罰が当たる」と親から教えられた結果、今日まで脈々と続いてきた。「農耕儀礼まで取り入れ、キリシタンではないキリシタンつまり"伝承キリシタン"と呼ぶべき異宗教になった」という。この臼飾りは長崎には例がなく、天草でも今や川嶋さん宅にしか残っておらず、「大変貴重なものだ」と話す。
九州の民俗について詳しい宮崎公立大学人文学部永松敦教授(日本民俗学)は「西日本に多い幸木で、お正月に竈(かまど)を祭るために吊すもので、魚や大根などを飾っていた。その飾り物が隠れキリシタンの伝承と結びついた大変珍しいものだ」と話している。
(金子寛昭 2019/12/27更新)
註:
(1)川嶋家の地蔵墓碑や魔境などキリシタン資料は、上天草市の「天草四郎ミュージアム」に所蔵し、展示してある。
◎関連記事:
○天草テレビ出版編著者「天草キリシタン10の謎」天草テレビ出版(2020年10月発行)
○西日本新聞「隠れキリシタンの名残?杵2本交差天草の「X型」正月飾り」2017年1月4日付朝刊。