天才画家・青木繁の「白馬会」出品目録や写真・絵道具も
日本近代美術史の新資料多数発見!
洋画家で日本近代美術史上に残る天才画家といわれる青木繁(あおき しげる 1882〜1911年)が1903(明治36)年、白馬賞を初めて受賞した時の出品目録や東京美術学校(のちの東京芸術大学)時代の写真、また彼が使ったと伝えられる絵道具など新資料が熊本県天草市で多数、見つかった。
福岡大学・人文学部・植野健造教授(日本近代美術史・写真上左)が青木と東京美術学校の西洋画科の同級生であった高木巌さん(1879〜1954年)の孫・聰さん(73歳・医師・写真上右)宅を2013年3月17日に訪問、調査して発見した。
青木は1900(明治33)年、東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝らの指導を受ける。
1903(明治36)年、神話をモチーフにした作品「黄泉比良坂」(よもつひらさか =東京芸術大学所蔵)などを白馬会第8回展に出品、白馬賞を受賞した。青木にとって同展は画壇へのデビューを果たした記念すべき展覧会だった。さらに千葉県南部の布良(めら)に滞在し、「海の幸」(国指定重要文化財・石橋美術館所蔵=福岡県久留米市)など後世に残る作品を描き、白馬会第9回展に出品し、さらに注目を集めた。しかし白馬会の8回と9回の展示目録はこれまで見つかっておらず、出品作品の内容について不明な点が多かった。
「白馬会」は、1896(明治29)年6月に黒田清輝らを中心に結成された洋風美術団体で、同年秋に第1回展を開催して以後、1910(明治43)年までに13回の展覧会を開催し、翌年3月に解散した。同会は西洋の新しい芸術思潮と技術を基盤とし、日本の美術界、ひいては社会に与えた影響は大きいといわれる。
植野教授によると結成100年を記念した「白馬会展」が1996(平成8)年にブリヂストン美術館ほかで開催される。
この時図録も刊行され、1回から13回までの白馬会出品目録をデータ化したものが掲載されるが、その時点では、第7回〜第9回展の3回分の出品目録は発見されておらず、未確認だった。このため、画集や種々の展覧会評などからある程度、出品内容を再現したものを記載したという。
今回の発見は、「青木が初めて『白馬賞』を受賞する第8回展に何を出品したのかこれまで詳しいことは分からず、青木の死後に、友人らの証言や、図録から推測するしかなかった。目録によると油絵ではなく、水彩画、パステル画で『自画像』や『与茂都比良佐加』(草稿=よもつひらさか)もある。青木の研究のみならず、日本近代美術史研究で第一級の資料だ」と話す。
また、高木家には巌さんのアルバムが残っていて、青木が東京美術学校時代の写真が3枚あった。東京芸術大学にも残っていない写真も現存。人名などキャプションの書き込みもあり、大変貴重な資料だという。
さらに青木が亡くなる2年前の1909(明治42)年、高木家に居候する。天草滞在中、青木は「天草風景」(大原美術館所蔵=岡山県倉敷市)を描いているが、そのときに使ったとされる絵筆箱とイーゼルも残っていた。
植野教授は今回の調査について「貴重な資料がたくさん残っていて、宝の山だった。特に『明治三十六年 第八回白馬会展覧会出品目録』は20年以上も前から探していたものが見つかり、大変、衝撃を受けた。これほどの成果がある調査は珍しい」と話している。
(2013/3/25)
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