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「カルワリオの十字架」
    「カルワリオの十字架」と呼ばれるキリシタンの礼拝碑を指す浜崎献作会長
         
石碑アップ   拓本   河内山ため池
墓碑ではなく、受難の十字架を刻み、
祈っていた礼拝碑
  特徴的なのは十字架の下部で「ハ」の字をした
支えのような線(赤い矢印の部分/拓本)
  拓本調査
(2019年11月29日)
         
「天草四郎陣中旗」   日本最古のキリシタン墓碑   河内山ため池
国指定重要文化財の「天草四郎陣中旗」に
描かれた「カルワリオの十字架」
  日本最古のキリシタン墓碑の
「カルワリオの十字架」拓本(大阪府四条畷市)
  西の久保公園内の河内山ため池で発見
(中央付近の岸辺)
       
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倉庫外に33年間放置したまま!
実は貴重な礼拝碑「カルワリオの十字架」
天草で初めて発見!史料的価値 高いと専門家

〜天草キリシタンの謎シリーズ(2)


熊本県天草市本渡町にある河内山ため池から十字架が刻まれた石碑が発見され、33年前の調査で引き揚げた後、市立本渡歴史民俗資料館の収蔵庫に保管し、放置されたままのものが、 実は天草で初めて発見された「カルワリオの十字架」と呼ばれるキリシタンの礼拝碑だと分かった。調査した専門家は「珍しく貴重なもので、史料的価値が高い。展示して、広く公開して欲しい」と話している。

石碑は砂岩の自然石で、直径約1メートルで楕円形をしており、縦27センチ、横22センチ、幅2センチのラテン十字架が描かれている。特徴的なのは十字架の下部で「ハ」の字をした支えのような線が引かれていて、これは「カルワリオの十字架」といわれるもの。キリストが十字架に磔(はりつけ)にされたカルワリオ(ゴルゴタ)の丘を表すものといわれる。
さらに十字架の下に真横に引かれた長さ30センチの線があり、大地を表現するものだと専門家はいう。墓碑ではなく、大きな自然石を利用して受難の十字架を刻み、祈っていた礼拝碑と思われる。
「カルワリオの十字架」は長崎の島原半島や大分県でも発見されているが数は少なく、天草では初めて確認された。国指定重要文化財の「天草四郎陣中旗」(天草キリシタン館所蔵)に描かれた十字架も同じ「カルワリオの十字架」といわれるものだ。

みつかった場所は天草伊豆守種元の本戸(本渡)城から約1.5キロメートル離れた西の久保公園内の池のほとりで、木が覆い茂ったところ。もともと田んぼだったところに農業用水を貯めるため1932年、ため池を作った。冬の干ばつ時に池から十字架が姿を現すといわれていた。埋まっていた石が池にずり落ちた可能性もある。

大浦天主堂キリシタン博物館の大石一久元研究部長(67)は南島原市の依頼で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録のため、調査報告書「日本キリシタン墓碑総覧」(2012年発行)をまとめた。(1)
その調査で天草を訪れた際に、資料館の学芸員からこの石碑を見てほしいと頼まれた。
「十字架の両端がひし形に膨らんでいるものは京都や大阪に例がある」1590年、「天正の天草合戦」以降、天草は小西行長の支配下になり、志岐領(苓北町)には堺の豪商で代表的なキリシタンの日比屋了珪(りょうけい)の息子、兵右衛門(洗礼名・ビセンテ)が領主でいて、コンフラリア(信仰組織)をたくさん作ったといわれる。(2)
「天草と関西とは繋がりも深い。キリシタン禁教期のものだろう。大変珍しいものだ。公開して研究者の意見を聞べきだ」と話す。

この石碑は1986年、旧本渡市教育委員会が現地を調査。池から引き揚げ作業が行われ、その後は資料館の収蔵庫に保管されたままで、研究者の多くが存在を知らなかったという。当時、調査をした本多康二館長は「確認調査で終わり、分からないまま、保存してきた。今後の活用については未定」と話す。当時も今も「分からないことが分かった」と答えている。
実はこの石碑、85年に天草郷土資料館の故錦戸宏館長がコレジオ跡地を示す標識ではないかと新聞に発表したものだった。当時は天草コレジオ跡地を巡って河浦、本渡説で大論争が起きていた。
錦戸館長は「河浦説に不利な史料が出てきて、河浦説を支持する"御用学者"の郷土史家たちが激しい反対ののろしを上げたものだから、池から引き揚げ、本渡歴史民俗資料館に石碑を隠蔽してしまった」と語り、調査を担当した平田豊弘天草キリシタン館学芸員(当時)が現地で発表した内容を聞いた錦戸館長は新聞に「石碑は明らかに池に滑り落ちた格好で見つかっており、周囲の地理的状況もよく調べる必要がある。ビール瓶などを採取し、年代判定の資料とならないなどとする今回の調査には全くあきれる。石碑の持つ意味や重要性、価値が分かっていないのではないか。このような調査では遺跡の破壊につながるだけで意味がない」と市教委の調査には大きな疑問を投げかけていた。(3)

「天草キリシタン研究会」の浜崎献作会長(75)は収蔵庫の外に置かれ、ブルーシートがかけられたままの石碑を21日、初めて確認した。
「いたずら書きだという人もいるようだがとんでもない。このような図象を刻むのは教義を理解した宣教師の指導なくしては考えられられない。16世紀末から17世紀初め(禁教以前)のものではないかと思う。」と時代はさらに古いと推定した。また「非常に貴重なもの。潮風のあたる場所に置いていては風化が進む。きちんと展示してみんなに供覧して欲しい」と話している。

***記者備忘録************

石碑は池から引き揚げられてからすでに33年も経過している。そろそろ天草コレジオ論争とは区別し、きちんと展示をして、遺物本来の調査研究を行うべきではないか。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(構成資産・崎津)を擁する天草市だが、学芸員の資質を問われている。

(2019/11/30 金子寛昭)

◎続報

天草市議会12月定例会で17日、一般質問に立った浜崎昭臣市議が、33年放置された十字架刻まれた石碑を取り上げた。

「西日本新聞の今月7日付けと、一昨日からのヤフーニュース(科学)に「十字架刻まれた石碑、33年放置 研究者ら『貴重で史料的価値が高い』」の見出しで記事が載っていた。
『天草市本渡歴史民俗資料館』の収蔵庫の外に、キリシタン時代の十字架が刻まれた貴重な石碑が33年間も人目に触れず、放置されていた、という崎津集落が世界文化遺産に登録されている本市にあって、その陰ではこのような何ともの不名誉なニュースが全国を駆け巡っている。
同じようにキリシタン時代の牛深・久玉城についても市民の関心も薄く、貴重な文化財が埋没してしまっているのが現状だ。
中村五木市長のたぐいまれな力量と、才能で持ち前のリーダーシップを発揮して、天草を光り輝かせて頂きたい」と締めくくった。(2019年12月17日)

(2020/1/25 更新)

◎註:
(註1)大石一久編、南島原市教育委員会『日本キリシタン墓碑総覧 南島原市世界遺産地域調査報告書』長崎文献社2012年。
(註2)日比屋兵右衛門は日比屋了珪(りょうけい)の息子。了珪は安土桃山時代の堺の豪商で代表的なキリシタン。ルイス・フロイス『日本史』12、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社1979。243頁。
(註3)「遺跡の破壊か 調査方法にも問題? 十字架刻んだ石碑引き揚げ」天草毎日新聞1986年2月11日。
◎協力:
大浦天主堂キリシタン博物館 大石一久元研究部長、長崎歴史文化博物館の元研究Gリーダー

◎関連記事:

○天草テレビ出版編著者「天草キリシタン10の謎」天草テレビ出版(2020年10月発行)

○「新説を提唱!謎のキリシタン墓碑/新説を提唱!謎のキリシタン墓碑/イエズス会士のロペス神父か?」

○西日本新聞 「十字架刻む石碑 33年放置 天草市のため池から発見」(2019年12月7日朝刊)