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苦節9年半!
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「ちから合わせて やろうじゃないか 若い血潮の 天草かたぎ」 本格的な演歌「天草かたぎ」(作詩・水木れいじ 作曲・船村徹)を歌う天草二郎(日本クラウン)。 本名は濱崎龍司さん(31歳)。熊本県天草市有明町上津浦出身。 作曲家・船村徹先生のところで9年半の内弟子修行、長い下積み生活後2005年5月25日、満を持しての歌謡界デビューとなった。 それまでの道のりは決して平坦ではなかった。 地元の高校卒業後、関西の電気関係の会社に就職し、サラリーマン生活を送る。 しかしある時、テレビで船村先生がギターで弾き語りをして歌っている番組を見て、その歌の魅力に心を打たれる。「歌というものはこんなに人を感動させることができるものなのか。自分もそうなりたい。先生の弟子になる!」と一大決心し、会社を辞める。 |
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そう言って上京はしたものの、あてもなく、アルバイトをしながらチャンスをうかがった。しかし先生との接点がなかなか得られず、苦労をする。 ある時、雑誌で、船村先生が弟子を募集している記事を偶然、見つけた。これだ!と思い、一も二もなく応募する。 ちょうど締め切り一日前だった。 ホテルロビーで面接の順番を待っていると、船村先生がエレベーターの前に立っているのを見つけた。すぐに先生の前に走り寄り、「よろしくお願いします!」と深々と頭を下げ、大きな声で挨拶をした。船村先生は付き人のマネージャーに「今のは誰だい?」と聞くと、弟子の面接に来た龍司さんだと知らされると、「今のがいいんじゃないか」と話され、その瞬間、弟子入りが決まった。先生との不思議な出会いだった。きっと、龍司さんの律儀な人柄が、船村先生に伝わったのかも知れない、、。 1995年7月、栃木県の山中、6,000坪の広大な敷地内にある先生の家「楽想舘」で、寝食を共にする内弟子生活が始まった。そこでは先生や自分たちが食べる食事を毎日作ったり、時には、木々の枝おろしなどを手伝ったりと、仕事は様々。およそ歌とは関係のないものばかり。 龍司さんの話によれば普段、先生は歌のレッスンは一切、しないという。その代わり、自分のコンサートで突然、弟子をステージに上げて、歌わせる。そうして試されているという。「歌は心でうたうもの」と先生の著書にもあるように、大事な人様の子供を預かっている以上、先生は簡単にデビューさせたりはしないという。内弟子生活の中で、「こいつは本当に歌心を理解したのかどうか」判断されてやっと、デビューが許されるという。長い内弟子生活が続く。 |
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家族の意見を聞く間もなく、先生に弟子入りした龍司さんだったが、そんな中、祖母の濱崎キクエさん(享年87歳)は彼のデビューを一番楽しみにしていた。兄弟の中でもやんちゃな龍司さんは、大のおばあちゃん子だった。「龍司、龍司!」とうるさく言って、怒られもしたけど、かわいがってもらったという。 3年前、祖母が病気で危篤状態になった。先生には「すぐに帰れ!」と言われた。しかし「仕事中なので、帰るわけにはいきません」と龍司さんはきっぱり断った。そして、ついに帰らなかった。キクエさんは死ぬ間際まで、孫の龍司さんはすでにデビューしていて、テレビに出ているものだと思っていたという。 帰りたくても、帰れない。一体いつになったら、、。そんな焦りにも似た状況が続く。 しかし二年ほど前、やっと先生から「どうだい、来年あたり、、。」とデビューをほのめかされる。 やっと、念願かなっての歌手デビューだ。弟子入りしてすでに9年半の歳月が流れていた。 |
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2005年3月末、デビュー曲「天草かたぎ」のレコーディングを終えて、天草に一時、帰郷する。龍司さんは真っ先に、自分の歌を録音したディスクをキクエさんの墓前に供えた。「念願かなってやっとデビューすることができました。これからも応援して下さい」と祈ったという。9年半の下積み生活は家族にとって見れば、長いものだったのかもしれない。しかし龍司さんは自分から好きで先生の所に押しかけていったのだから、それは「苦労でも何でもない」と話す。 2006.8.2 |
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天草二郎後援会ホームページ |
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