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今から410年前の昔、
日本で最初に活字印刷をしたことでも知られるキリスト教布教、 聖職者養成の神学校「天草学林(コレジオ)」がここ、天草島にあった。
コレジオ(collegio)はキリシタンの最高学府で、 英語のカレッジ(college)に相当するポルトガル語。
天正19年(1591年)安土桃山時代に、 イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが 豊後府内(大分)に設立。
その後、豊臣秀吉のキリシタン弾圧を逃れ、天草に移転。

天草の地にできたコレジオでは、 神学、ラテン文学、 日本文学、自然科学、西洋音楽、宗教絵画などを学び、 またヨーロッパから帰国した 少年使節らがもたらした グーテンベルグ式金属活字印刷機を使って、 平家物語(英国・大英博物館所蔵)やイソップ物語(同)の文学書や、 日本語・ラテン語・ポルトガル語の対訳辞典 (羅葡日対訳辞書/英国・オックスフォード大学所蔵)、 信心書など12種類が日本で初めて印刷された。
これらは「天草本」として、文学的、思想的、学術的価値の高いことで 世界的に知られている。

そして西洋近代科学の研究、教育で 日本最古の大学ともいえる「天草学林(コレジオ)」 を頂点に、 西洋文明の薫り高く、豪華絢爛(ごうかけんらん)な南蛮文化が栄えた。
この後約50年後に、高度な教育を受けた人々は、平等の精神を説いたキリストの教えのもと、 江戸幕府の圧政に反して、天草四郎時貞を中心とした キリシタン殉教戦「天草・島原の乱」へと歴史は大きく動く。
島の人々3万7千人を蜂起させ、信者はすべて虐殺されるという、 世界史上類を見ない殉教戦となり、人々は 戦場の露となった。

その後、江戸幕府直轄の統治下、信仰は地下に潜伏し、 隠れキリシタン文化となり、 また長崎を窓口とする外来文化などの影響を受け、 大陸的で文化的に異質なものが現在も数多く、存在している。
天草島独特の歴史的、文化的資料は多彩であり、 これまでにあまり紹介されることのなかった、
貴重な島のお宝を、このコーナーでご紹介致します。


 

  天草四郎が一揆群を率いた時の様子などを、
具体的に記述してある唯一の、貴重な資料。
江戸幕府が作成した報告書である。
また元文4年の製作で、日本最古の天草四郎像をご紹介します。

 




  その昔、海を渡ってきた宣教師が持参、
幾十百年の星霜を経て甦った世界でも例のない遺物と推定される。
恐らく、この貝は聖杯として隠れ切支丹の儀式に使われたものであろう。
水に漬けたところ表面の汚れ(偽装か)が全部落ち、黒い十字架が現れた。

 
 
 
   
 

 
 
 
   

 

 

 

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言葉は文化。
天草弁は古語と南蛮渡来の外来語の影響が今も、
色濃く残っています。
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天草方言の語源について

天草の言葉はバッテンで代表される肥筑方言の中に分類されている。
長崎、熊本、鹿児島の方言の影響を受け、さらに古語、外来語などが混じり、
天草独特の方言ができあがったと思われる。
天草は早くから海外との交渉もあり、中国大陸、さらに大航海時代には
ポルトガルの宣教師たちがもたらした言葉、江戸時代には鎖国で、
唯一外国との貿易が許されていた長崎の出島にも近いこともあり、
オランダ語も数多く残っている。

たとえばお前のことをワル(我)、ヌシ(主)、アアタ(貴方)、
コンタ(此方) などいろいろ使われるが、これらはみな古語辞典に載っている言葉で、
むかし日本の中央から天草に伝わってきて、そのまま方言として残ったと思われる。
また天草ではガラスのことをビードロといい、これはポルトガル語源といわれ、
ラムネの玉のことをビーダマと言っていた。
そのほかシャボン(石鹸)、ボーブラ(カボチャ)、サラサ(衣)、チン(亭)
キビッショ(急須)など、 これらはみな南蛮由来の外来語である。
また、天草の方言は語尾にジャットン、ソギャンジャン、というように、
チン、トン、ジャンが付き、楽団のようなにぎやかな音感である。

最近では、方言の話せる子供たちも少なくなってきている。
方言はいにしえからの、幾世代にも渡って伝えられてきた、その地域独特の文化であり、
次の世代まで大切に伝えていきたいものだと思う。

 
 
 
   
 
 



 

 

 

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