本丸はどっち?謎多く定まらず
キリシタン時代の本渡城
悲話「兜梅」伝説の舞台を歩く
天草市浜崎町の延慶寺にある県指定天然記念物の「兜梅」(かぶとうめ)が咲き誇り、訪れる人の目を楽しませている。
「兜梅」の名の由来は1589年の「天正の天草合戦」(天草国人一揆)で、城門を開いて討って出た武者の中に木山弾正の妻、お京の方がいた。騎馬で加藤清正陣に挑んだが、兜が梅の枝に引っかかり、身動きが取れなくなり、討ち取られたという悲話からと言い伝わる。その合戦の舞台となり、キリシタン時代の宣教師の報告書には後世に伝えられるべき殉教戦と記録されている本渡城だが、本丸がどこなのか定まらず、実態がよくわからない謎の多い城だというのだが、「兜梅」にまつわる伝説をひも解き、物語の舞台を歩いた。(金子寛昭)
「兜梅」伝説
「兜梅」は東西約11メートル、南北約6メートルに枝が伸び、地を這うように枝を伸ばし、伸ばした先から根を張り、幹を立て小枝にいくつも花を咲かせている。その姿から「臥竜梅」(がりゅうばい)とも呼ばれ、樹齢は推定約500年。
司馬遼太郎は1980年2月初旬にここを訪れ、著書「街道をゆく 島原・天草の諸島」の中に「ここの梅の花は、花弁の肉質があつく、白さに生命が厚っぽく籠っているような感じがする。ともかくも、こういう梅の古木も花も色も見たことがなく、おそらく今後も見ることがないのではないかと思われた。」と驚き、さらに翌日の朝も再び訪れて「朝のひかりをあびているこの古梅は、きのう夕闇のなかで見た以上に美しく、花の色はほとんど象牙色に近かった。」と感動を詳細に描写している。(註1)
実はこの梅の木にまつわる悲しい伝説が今も語り継がれている。
小西行長の命令に従わなかった天草の豪族、天草氏に対し、小西・加藤連合軍が城を攻めた。主人たちが討ち取られ陥落寸前、もはやこれまでと、女たちは髪を切り、鎧兜を身につけ敵陣へ立ち向かっていった。宣教師のルイス・フロイスが書いた「日本史」にはその数およそ300人と記録されている。
お京の方が討ち取られる時、「おのれ憎いこの梅、花は咲くとも、やわか実を実らそうか」と無念の叫びをあげて果てたという。
1934年、この地を訪れた詩人の野口雨情は美しい花にまつわる逸話を聞き「花は咲いても実らぬ梅の 昔がたりは城の趾」と詩を詠んだ。そして直筆の書が浜崎町の木山弾正の先祖宅に残っている。その梅の木だと伝わるが、天草氏の居館跡とされる明徳寺からなぜか約300メートルも離れた延慶寺内にある。
殉教戦となった本渡城
本渡城之平の本渡城は14~15世紀の動乱期に築かれたものだといわれるが、天草下島南部を支配する豪族、天草氏の重要拠点であり、天正天草合戦の舞台となったことで広く知られる。
どんな城だったのか加藤清正の伝記「清正記」(1661)や戦記史料の「九州記」(1688)などによると、城郭は東西南の「三方は険阻」で北側の「一方は山」へ続く要害の城で、明徳寺裏手の権現山(惣陣山)から城山公園までの尾根沿いに築かれた。南と東側は船之尾や浜崎と呼ばれるように当時、城近くまで遠浅の海岸線が迫っていた。山や海の地形をうまく利用し、戦時には敵から攻めにくい山上に立てこもり、要塞としての山城だった。
しかし加藤、小西両軍がどこに陣取ったのか、3つの史料「清正行状奇」「九州記」「水野日向守覚書」のいずれも異なっていて、定まっていない。(表1)
フロイスの記録「日本史」や1571年のフランシスコ・カブラルによる書簡に本渡城は、ドン・ジョアン(天草久種)の居城(河内浦城=現河浦町)に次いで領内では最も堅固、また非常に広壮な城で、伯叔父のドン・アンデレ(天草伊豆守=種元)が城主だったと書かれ、城内には教会もあり、激戦の模様をつぶさに伝える。戦の結果、城主と奥方、従兄弟を加えた家人の全員が城で亡くなり、そして子供を含めたキリシタンの信者1300人が命を落とした。本渡を含む周辺の宗団が壊滅するほどの激しい戦いだったと記す。(註2)
決戦の舞台 本丸はどこ?
「清正記」には「二ノ丸」は乗っ取った。直ちに「本丸」を乗っ取るべし。また「九州記」には伊豆守は「矢倉」に上がり、妻子共に自刃したとある。「二ノ丸」「本丸」「矢倉」が存在したことが分かるが、実はその場所が定かではない。加藤清正らはどの場所を攻めたのだろうか?分からないとなると、ますます気になってきた。「天草歴史文化遺産の会」の山下義広さん(74=天草市亀場町)に尋ねると先人の郷土史家たちが研究した本渡城に関する資料をいくつか紹介してくれた。
天草キリシタン館の天草四郎像を制作した彫刻家で同館の初代館長だった亀井勇氏は1968年に発表した「本戸城址考」(天草史談第19号)によると、現在の天草キリシタン館のある場所が元の本丸で、二ノ丸だとする。1585年、木山弾正が本渡城の客将になり、種元はそこを譲って二ノ丸にし、明徳寺あたりの新館に住み、背後の権現山に本丸と矢倉を築いたという。二ノ丸に木山弾正神社と祠があり、尾根続きの高台に木山弾正の塔がある。「本渡城主木山弾正」と記述の文書もあり、それを裏付けるとする。(註3)
一方、郷土史家の鶴田八洲成氏は1989年の「本渡城の歴史的構造」(天正の天草合戦誌)で浜崎町の本戸庄屋跡から本渡城を見た古記録を紹介。天草キリシタン館のあるところが本丸(標高45メートル)だとして、これまで権現山が本丸だとする自説を覆した。さらに木山弾正の塔や天草伊豆守の記念碑、六角堂があるところが二ノ丸(62メートル)だと推定。また平時の場合の居館は明徳寺あたりの平地だが、合戦では裏山の権現山(77メートル)に加藤清正軍が陣取ったとした。(註4)
果たして本丸より高いところに二ノ丸があったのだろうかと疑問が残るが、山下さんは「先学のいずれも故人になってしまい、また後に続く研究者もいない」と残念がる。
謎多く定まらず
物的な証拠資料はないのだろうか?1968年の天草切支丹館オープンの建設工事に伴い56年当時、本渡中学校教諭だった鶴田倉造氏(郷土史家)は郷土クラブの生徒達と共に遺物を採集している。前庭から崖にかけて厚い焼土に混じって土師器や龍泉窯系の青磁類、金張りの鎧の小札、刀子、石印などが出土したと「本渡市史」に書いている。(註5)
また市が2005年から09年にかけて同館の建て替え工事を行う際に実施した調査の報告書によると、60年代からこれまでの表面採集や調査によって出士した遺物は約600点にのぼるといい、この中には青磁の酒海壺(しゅかいこ)の破片があり、これは領主の権威の象徴として各地域の城館に出土するものだとする。
しかしながらキリシタン関連の遺物はまだ見つかっていないという。仮にここが本丸であったとするならば、千人以上のキリシタンが亡くなっているという記録から、原城のようにクルスなど聖遺物が見つかってもよさそうな気がするが・・・と、疑問が残る。
66年の天草五橋開通時やその後の観光開発で天草切支丹館建設や殉教公園整備などで城の大部分の曲輪部分が失われれた。報告書では城本来の姿が確認困難としつつ、本渡城の縄張りや規模はこれまでの説と同様、殉教千人塚がある城山公園丘(32メートル)が「出丸」で、天草キリシタン館が二の丸、明徳寺あたりを城主居館と想定し、本丸は権現山の頂上としている。これまでの説を表にまとめた。(表2)
しかしながら天草伊豆守碑から権現山さらに矢繰場などは、今も曲輪や石積みが原型を残しているものの、発掘調査がまだ行われておらず、今後の調査の中で詳細な検討が必要だとしている。
報告書を担当し、また「九州の名城を歩く」の熊本編(註6)の著者で市文化課の中山圭学芸員はあくまで個人的な見解だと前置きして「領主クラスの出土品もあり、天草キリシタン館のある場所が本丸ではないか」と報告書とは全く逆の答え。ますます、謎は深まるばかりだ。
(2024/2/10)